死は問題なのではなく、単なる事実だろう。死が問題となるのは、おそらく、生きている者にとって、死への恐怖が破滅的なものだからだろう。
しかし、それは、生の側から死を眺めた場合の話であって、死の側から死を眺めたら、それは、すべての抵抗の放棄、すべてからの解放であり、要するに平安なのだろうとも思われる。どうだろうか?
このことを死せずして体得的に理解すれば、それを「悟り」と呼ぶこともできるのかもしれない。
一方で、死ぬ最後の最後まで、 悪あがきしてでも生き抜くという場合もある。これは、一見、生に執着しているように見えるが、そのような愚かな無様なものではなく、与えられた生を力尽きるまで生き抜くということであって、これも、無心の生なのだと思う。
人間でなくとも、故郷の川を遡上し力尽きていく鮭の姿に、生命の尊厳を感じはしないだろうか? ともあれ、生き物は、その力を使い果たし、最期は平安に死ねるようにできているのだと思う。
この、力を使い果たし、死に臨んで、生から「力を抜く」ことを、『死ぬ瞬間』で有名な女医キューブラー・ロスは、「デカセクシス(Decathexis)」と呼んだそうだ。「カセクシス」とは、エネルギーを備給・充当することであり、その逆を意味する「デカセクシス」とは、生からエネルギーを引き上げ撤収することなのだ。だから、この時、すべての抵抗の試みは放棄され、絶対的な受動の平安だけが残る。死とは、そのようなものだという。
さて、作曲家のフォーレは、自身の『レクイエム』に対する、「死の恐怖が表現されていない」などなどと言った批評に対して、次のように答えたそうだ。
「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません。」
これも、同様の事態を表していると私には思われる。つまり、フォーレは、「死の側から見た死」をそのまま表現したかったのではないだろうか。
死と直接は関係ないかもしれないが、天才の代名詞のようなかのアインシュタインの興味深い言葉をいくつか以下に引用してみたい。
「海は、形容しがたい壮大な姿をしている。とりわけ、日が沈む瞬間は。そんなとき、自分が自然に溶け込み、ひとつになるように感じる。そしていつも以上に、個人という存在の無意味さを感じる。それは幸せな気分だ。」
「客観的に判断すれば、情熱的な努力によって、人が真実からもぎとるものは、全く無限小です。しかし、この努力は、自己という束縛からわたしたちを解放し、わたしたちをもっとも偉大な人々の一員にします。」
「人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる。」
自己という存在の無意味さ、そして、自己という束縛からの解放、ということが語られている。そして、それは、おそらく、偉大なものに触れることによって生ずる感覚なのだろうと思う。アインシュタインにとってそれは主に、宇宙の神秘だったのかもしれない。
「わたしたちは、好奇心に満ちた 子どものようになってしまう。…この偉大なる神秘、わたしたちが生まれてきたこの世界の前では。」
「自分が生まれた自然界の偉大な神秘を前にし、永遠や生命、宇宙について思いを馳せるとき、誰もがそこに畏敬の念を抱かないではいられない。」
芸術であれ、自然であれ、宗教であれ、真に偉大なものに触れることによって、自己というもののちっぽけさから解放されていくことは、人間形成論として、非常に重要だと思う。その点、アインシュタインは、「天才科学者」というよりも、「天才的『人間』」といったほうがよいかもしれない。
科学に限定せず、科学を通しつつ、自己というものを超えた人間の成長の可能性に、アインシュタインは、開かれていたのだと思う。
ともあれ、青年期を超えて、老年に至るまで、その意味で、人は成長できると思う。つまり、偉大なものに触れ学びながら、自己から解放されていくというプロセスは、生涯を通じた、救済のプロセスでもあると思う。
それは、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの言う、「哲学は死の学びである」ということと相通ずるものもあると思う。
とは言うものの、この解放のプロセスは、必ずしも悲観的な意味での、「我を失う」ということではなく、先程のアインシュタインが、美しい自然に溶け込むときに、
「個人という存在の無意味さを感じる。それは幸せな気分だ。」
と述べたように、個人の枠内では生じ得ない、より大きな喜びと幸福への道であるということは、ぜひとも付け加えておかなければならないと思う。
個人の枠で幸福を考える立場からは逆説的ではあるけれど、この自己からの解放のプロセスは、幸福観が、エゴに根ざしたものから、エゴを超越したものへとコペルニクス的に転回する上での決定的に重要な点なのだろうと思う。
「人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる。」
という、アインシュタインの言葉をもう一度引用するならば、この言葉は、「幸福とは何か」という問いに対する、ひとつの答えにもなっているように思う。私にとって幸福とは、なんだろうか、あなたにとって、幸福とはなんだろうか…。
*参考
・E.キューブラー・ロス『死ぬ瞬間‐死とその過程について‐』(中公文庫)
・A.アインシュタイン『ひらめきの言葉』(Discover)
・プラトン『パイドン』(岩波文庫・新潮文庫など)
・フォーレの言葉 http://www.worldfolksong.com/classical/faure/requiem/
管理人様
こちらにはじめてコメントいたします。
所感拝読いたしました。
アインシュタインの言葉からの引用が大変印象的でした。
「個人という存在の無意味さを感じる。それは幸せな気分だ。」
「人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる。」
こちらの引用は
「他力」ということとも似ているのではないか。そのように思います。
「肥大化した自己・自我」が近代の人間の苦しさの根源なのではないかと思います。
私たち人間は自分の命を自分だけのものとし所有物とすることの限界をもっと自覚した時
アインシュタインの言った「幸せな気分」になれるのではないかと思います。
安堵、とも思えます。
他力でいいんだよ、もしくは他力しかありえないんだよと。
Ab様
はじめまして。コメントありがとうございます。
天才の代名詞・アイコンのようになっているアインシュタインは、天才的な科学者であったことは、誰もが(その理論の内容はともかく)知っていると思います。
しかし、理論に詳しくない一般の人間も、アインシュタインの人間観・人生観から多いに学ぶところがあると感じる時、アインシュタインが一気に身近に感じられるかもしれません。
私自身は、そのように感じましたので、紹介させていただきましたが、印象に残ったということで、嬉しく思います。
コメントで引用頂いた部分と関連して、近代を生きる人間の苦しさと、他力ということを結びつけて考えておられるところは、私も共感いたします。
他力は、努力や作為によって「得られる」ものではないと思いますが、しかし、偉大なものに触れることによって、苦しみの根源になっている自我・自己といったもののちっぽけさが感じられる時、他力的な感覚が「与えられる」のかもしれませんね。
私自身、そうしたことについては、分かったようなことは言えませんし、生涯の課題と感じております。
それで、自我や自己から解放されるということは、それを失うようで、怖いと感じられるかもしれません。実際、自我や自己ほど大切なものはないと、本能的に思って生きているのが、人間の元来の姿だろうと思いますので。
しかし、自我や自己からの解放ということは、おっしゃるとおり、「安堵」であり、その安堵は、結局、他力しかありえないとのご指摘は、本文を書いた私にとっても、新たな観点を与えてくれる有意義なご指摘と感じております。
ありがとうございます。
人間はどうしても、自分がかわいいものではありますが、この貴重な人生を通して、それを超えた、あるいはそこから解放された世界に触れられるようでありたいものですね。