◆ごあいさつ および この研究所の成り立ちと目的
~市井の思索者による草の根のネットワークへ~
◇ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
さて、「臨生人間学」は、「臨床」ではなく「臨生」と書いて、「臨生人間学(りんしょうにんげんがく)」と読みます。そのまま読めば、「生に臨む人間学」ということになります。
現代は、物質的には豊かになりましたが、人間が本当に幸福なのか、そして、人と人が、あるいは人と社会、人と自然が、持続可能なかたちで共存・共生できているのかは、大変疑問です。こうした問題は、ひとりひとりの内面性の問題でもあり、同時に、社会全体の問題でもあります。
「臨生人間学」は、問題が「病気」などによって顕在化した「臨床」を含みつつ、それを超えて、人生全体を、人と人との関わりの中、すなわち文字通り「人・間」で考察し、また、自他の人生を深め合っていく、地道な実践的な探求です。「学」といっても、知識や理論のことではなく、「生きる」ということにより密着し目覚め自覚化していくプロセス、あるいは営みのことを指します。
これは、大学などの専門機関にいなければできない学問ではありません。専門知識も、それがあることが無駄になるわけではありませんが、根源的には臨生人間学は、「生きることそのもの」に立脚し、そこにおいて発見され自覚化され実践されていくものであり、「誰でもの学」であり「ひとりひとりの学」であります。そのため、「個別性」・「在野性」・「対等性」・「公開性」・「交流性」・「実践性」・「創出性」等々ということも自然に特徴となってきます。
管理人自身が、大学は出ているのですが、在野の人間でありますし、現在、様々な方面で様々な問題意識を持ちつつ、新たな時代の、新たな人や社会のあり方、そして、そこにおける他ならぬ自分自身の生き方を模索している方々と、専門や領域等々の壁を越えて、連帯できる媒体として、「臨生人間学」という発想や言葉、またこのサイトが、何らかのヒントになれば大変幸いです。
私自身は「臨生人間学」という言葉を自身の修士論文に自身の言葉として用いたことがありますが、現在は、「臨床人間学」という言葉や学科も大学にあり、あるいは、単独で「臨生」という言葉も用いられているようです。しかし、今も、「臨生人間学」という言葉は、ネットその他で検索しても、まだ見当たらないようです。(2014年3月21日現在)
しかし、それは本質的なことでは全くありません。「臨生人間学」が、人が、大変広く深い意味で、よりよく生き、よりよい社会を築いていくための、各自の生に根ざした探求と実践、そして、そうした人々の連帯の媒体として、対等に開かれた学びのキーワードになればそれに越したことはありません。
◇この研究所の成り立ちと目的
「臨生人間学研究所」と名づけたこの研究所は、目下は、事務所があるわけではなく、あるとすれば、管理人の個人宅の部屋に外からは見えない表札のようなものが掲げてあるだけです。成り立ちは、よき理解者の方々の助力もあり、それをサイバースペースに公表する運びとなったことがきっかけです。
「研究所」という物理的なスペースよりも、実際においては、よき意見交換ができ、また多大な支援と励ましをいただいた仲間や、これから関心をもってくださるかもしれない方々も含めた、連帯や情報交換・相互向上、ひいては人類の未来への種まきのためのサイバースペースと考えていただくのが今のところはよいと思います。
今後、具体的な活動も考えておりますし、物理的な形や行動も実際の「アクション」として大切であることは無論ですが、それにとらわれ過ぎると、場合によっては原点を見失うこともあり本末転倒になってしまいます。
あくまで、原点は「生に臨みつつ人と人の間で学ぶ」ことを通しつつ、自他ともに人生を深めていくことであり、そこから自ずと、それぞれにとってご縁のある分野等々でよき活動につながっていくものと思います。逆に、それぞれの目下の活動から、「臨生人間学」へと凝縮・結実させて分かち合っていくことも可能であると思います。
また、「臨生人間学」という発想のもとに、より深く考えるヒントを古今東西の思想家に見出すことは可能ですし、その知識や理解はそれぞれ異なると思いますが、「生に臨む」という点は、誰にでも公平な平等な事実であり、その意味では対等な対話としての学びが基本です。
以上のような学びと連帯の媒体になることができれば、「臨生人間学」と、「研究所」は、その目的を達成する、というよりも、人間探求という無限に深いプロセスとネットワークのうえにあることになるでしょう。
どうぞよろしくお願いします。また、みなさまひとりひとりの生が、限りなく深く豊かなものでありますように。
(2014年3月21日(金)春分の日 管理人記す)